秋葉原無差別殺人事件のニュースで現代日本社会が、とりわけ労働市場の実態がこうなっていたのかとあらためて思う。実は10年以上前に、これはよくないと思った。今も思っているが解決策などは思い浮かばない。きれい事を言いつつやっている事は労働者搾取。そうゆう経営を褒めたたえるのは間違っている。
しかし、その事と大量殺人者の欲望とはまるで別の問題。大量殺人欲望というものは存在する。欲や恨みで殺人事件を起こすのではなく、抽象的な殺人願望みたいものを持つ人間が存在するらしい。ともかく無差別殺人事件のニュースにはことかかない。
精神科医や警察官は仕事の過程で、そのような欲望に出会っているはずだ。出会っていても気がつかないか、気がついても日常業務的事務処理に流し込んで、出来るだけ思い出さないようにするのだろう。
大量殺人欲望が所を得るのは合法的殺人が可能な戦争においてであるのは指摘するまでもない。
全く戦争に向いていない人間というのもかなりの数いる。志願兵として第二次大戦に参加してPTSD(当時の言葉でいえば戦争神経症か?)になったサリンジャーが、その典型だ。
サリンジャーは当時マイノリティーの中のマイノリティーのような存在で、ユダヤ教を信じるかわりにアメリカ合衆国を信じたのだろう。
ノルマンディー上陸作戦に参加するためにイギリスに送られたサリンジャーは激戦地のユタ・ビーチに一兵士として上陸。その後、彼の属する第四師団は約半年熾烈な対独戦を戦うことになった。とりわけヒュルトゲンの森での戦闘は残忍で無益なものであった。今日専門家の多数は米軍上層部の判断ミスであったと批判している。
サリンジャーは私の親の世代に属する人で、この世代の作家はそれぞれ戦争体験に基づいたものを書いているが、サリンジャーは一切書いていない。
われらの時代の大量殺人者といえば連合赤軍事件の永田洋子である。この人の手記は一応買ったのだが、不気味で最後まで読み通せなかった。
ラカンは主体の在り処は無意識であるといい、フロイトは無意識もまた嘘をつくという。永田洋子が著書で(存在もさだかではない不可視の?)党=教会をもち出す時、まさしく言葉の真の意味で主体性を回避しようとしている。彼女の手記は、そのようにして欲望の不気味な生々しさが浮かび上がる構図になっている。
今日の大量殺人者は何も言い訳しない。殺すのは誰でもよかったなどと言う。犯行の残虐さに目をおおいたくなっても、欲望の不気味なリアリティといったものが感じられないのは何故だろう。
スティーブン・キングの中篇小説『ゴールデンボーイ(Apt Pupil)』の主人公トッドは明るい性格で成績の良い高校生だったが、一方ナチスの残虐行為に強い関心を持っていた。ある日、ナチスに関する古い出版物で見たことのあるナチ戦犯の顔を街で見つけた。
元ナチス強制収容所司令官だった老人と少年の欲望は共鳴しホームレスを騙して殺すまでに至る。現代日本における中学生等によるホームレス殺人の動機はこの辺にあるのだろう。
老人の方は病院に入って確か同室の患者に思い出されて逮捕される結末になっていたのは小説も映画も同じだったと記憶するが、老人逮捕と同時に犯行がばれたトッドのほうは、映画は逮捕されるだけだったと思うが?、小説はハイスクールを優等で卒業した祝いに父親から買ってもらったライフルでハイウェイを走る車を狙い撃ちして炎上させる結末だった。
さすがにこの場面は映画にはできないわな。
小説も映画も良い作品ではあるにしても‘お薦め’ではない。「嫌なものを見てしまった」と思う向きが少なからずいるはずだ。
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