カテゴリー「書籍・雑誌」の2件の記事

2008年5月22日 (木)

紫禁城の黄昏

 『紫禁城の黄昏』(岩波文庫)を読了。Reginald F.Johnston“Twilight in the Forbidden City”(1934)の抄訳本である。完訳本は祥伝社と本の風景社から出ている。

 引越しに際して捨てずに持ってきて結局最後まで読んだのは、この歴史のどつぼに嵌ってしまった人物ラストエンペラー溥儀に同情したからだ。

 しかし、この本を読んでも溥儀という人物はよくわからない。溥儀の英語教師(帝師)であったジョンストンは教え子を持ち上げすぎだといわれている。確かに弟子の溥儀を過大評価することは師ジョンストンの自己価値感情を高めることにもなるが、意図的に弟子を褒めたたえているようには読めない。

 それにしてもこの本の溥儀像からは東京裁判の証人席に立った人物とはまるで別人のような印象を受けることだけは確かだ。

 溥儀には真面目な部分と軽薄な部分があった。

 「皇帝のなかには二つの人格がある、良いほうが悪いほうを服従させないことには、皇帝のためにもならないし先祖にも申し訳が立たない」と何度となく言って聞かせる都度「皇帝はその批評を受け入れ訓戒に対しても機嫌よく耳を傾けたが、期待した効果は上がらなかった」。

 その軽薄な側面については六歳からの帝師である陳宝琛も認めていて中国語で「浮」と評している。「浮く、流れる、掴み所がない、移り気、金遣いの荒いこと、不安定な、不確実な」を意味している。

 でジョンストンは彼の知的な部分は母方の血であり、軽薄または浮の部分は父醇親王からの遺伝のような気がしてならないと書いている。

 この本では知的な部分はよく分かるが、軽薄または浮の部分がよく分からない。完訳にはあるのかもしれないが、長所は具体的に書いているが短所は具体的に書いてないのだ。

 醇親王については以下の記述がある。宦官の罷免についてのやりとりだ。彼とは溥儀のことで父は無論醇親王。

「彼はもはや青年の域に達し、小心で無能な父との論争にも十分強くなった。しかし、三人の太妃の涙と抗争するのは簡単ではないことを思い知らされたのである。三人の老婦人に仕える約50人の宦官にかぎり、皇帝によって退去命令が取り消された」

 溥儀は書画詩に巧みであったが、語学には熱心でなかった。英語も満州語も上達しなかった。むしろ芸術家肌の人間だったのかもしれない。中国を舞台として繰り広げられている政治劇についての報道には熱心に目を通していた。

 暗愚でも凡庸でもない。恨みをあとに引きずる人間ではなく寛容であり淡白だった。

 1922年、16歳の時、正妻の婉容、側室の文繍と結婚した。昔からの慣例に従って複数の婚約者を与えられたことに溥儀は強く抗議し、宮廷(とりわけ皇太妃たち)に驚きと衝撃を与えた。

 紫禁城を追われ天津の日本租界で暮らしていた時、正妻の婉容との確執が深まった側室の文繍と別居の末に1931年に離婚した。

 文繍は溥儀に対して慰謝料を求めて告訴し、さらには溥儀の性癖や家庭内および宮廷内の内情をマスコミに暴露した。

 婉容との夫婦仲は冷え切っていた。溥儀のインポテンツかホモセクシャルが原因とも言われる。婉容は重度のアヘン中毒に陥った。

 Wikipediaによれば、婉容には満州国皇后時代に2人の愛人がおり、娘を出産したと言われる。溥儀の自伝にある彼女の「許し得ない行為」とは、このことと思われる。しかし、産まれた娘はすぐに彼女の前から消えた。婉容本人には「親族の手で育てられる」と伝えられたが、実際には溥儀の命を受けた従者が娘をボイラーに放り込んだ。

 1937年に関東軍の薦めで譚玉齢と李玉琴を側室とするが、その後関東軍に対して反抗的な行動を取った譚玉齢は1942年に不審死を遂げる。東京裁判で「私の妻は日本軍に毒殺された」と言ったのは譚玉齢のことで、関東軍の高級将校で「御用掛」である吉岡安直が手を下したとしたが、自伝「我が半生」完全版では極東国際軍事裁判での偽証を謝罪し、日本軍と満洲国との連絡役を務めた関東軍将校の吉岡安直に罪を擦り付けたことを反省している。

 1959年に戦争犯罪人に対する特赦令で赦免された後、1962年に看護婦をしていた李淑賢と再婚。彼女とは生涯添い遂げたが夫婦円満ではなかったという。どう見ても彼の五回の結婚はすべて政略結婚である。

 もっとも弟の溥傑が、日本の名門華族嵯峨家(旧姓・正親町三条家)令嬢の嵯峨浩と結婚したのも政略結婚にほかならないが、こちらは夫婦仲はよかったから政略結婚だからうまくいかないと云うことでもないようだ。

 嵯峨浩が書き残したものによれば溥儀は日清のチキンラーメンが好物であった。

 この暗殺と処刑の瀬戸際を辿る人生だった人物は文化大革命の最中1967年癌で死去。元皇帝であるいう理由で癌の治療を受けられなかったとか、粛清されたのではないか?との説もある。

 死ぬ間際には「チキンラーメンを食べたい」と言っていたそうだ。

 関東軍が満州国皇帝にかつぐ前に、張作霖が溥儀を満州に呼び寄せようとする陰謀があった。この陰謀が成功すれば、関東軍よりは張作霖の方がうまくやったんじゃないかと思える。

 ジョンストンと溥儀には感情生活のうえでひどく相性がよい部分があったと推察できる。


 直接メールはup7am@yahoo.co.jpにお願いします。


 <NewCybweText> へのリンクです。こちらも読んでね!

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年5月19日 (月)

死海文書

 イスラエルは建国60周年を記念して、41年前ぶりに死海文書の一部を三ヶ月間限定で公開しているとのことだ。

 バーバラ・スィーリング著『イエスのミステリー 死海文書で謎を解く』(NHK出版)は引越しの時捨てた。半分くらいしか読んでなかったがまあいいかと思う。

 『新世紀エヴァンゲリオン』というのは全然知らなかった=^・ω・^=にゃ。

 以下はWikipediaからコピペ。
 炭素年代測定法と古文書学によると死海文書は紀元前2世紀の中頃から紀元後1世紀にかけて書かれたものである。少なくとも一つの文書は、炭素年代測定法により紀元前21年から紀元後61年のものだと判明した。この時期のヘブライ語の文書は、エジプトから出土した、十戒の写しを含むナッシュ・パピルスが他にあるのみである。同様に書かれた資料は、マサダの要塞都市など近隣の場所から発見されている。
 死海写本はエルサレム神殿図書館から流出したもの言われる。紀元70年のユダヤ戦争でエルサレム神殿はローマ軍攻撃により完全焼失した。ユダヤ戦争前あるいは戦争中にエルサレム神殿から持ち出されクムラン洞窟に隠された?
 エルサレム神殿祭司たちはユダヤ戦争中、もしも戦争後ローマ軍が神殿に入り図書館を検査した際、ユダヤ戦争の発端となったユダヤ過激派たちに関連する文書が見つかると神殿の立場が危うくなると心配し、神殿図書館じゅうの過激セクト関連文書を集めて少人数に託し神殿を脱出させたという見方がある。ナグ・ハマディ写本にも見られるように、古代ユダヤ教では、神の名が含まれた文書は、たとえ過激セクトによって書かれたもの、異端視されたものであっても、焼くことが禁止されていた。
 エルサレム神殿から山を東に降りヨルダン川に達すると東岸にはクムラン城塞(ユダヤ軍基地の一つ)がある。ここはエルサレム陥落後もしばらく持ちこたえた。写本を抱えた一行はクムラン城塞の軍人たちに文書保管を依頼したが拒否されたため、城砦の下ヨルダン川沿岸に無数にある大小の天然洞窟に写本を隠したのであろう。
 この仮説は、死海写本の年代や、非常に多様なユダヤ教宗派の信条や外典が集められている点などをうまく説明する。
 この仮説が正しいとすると、エルサレム神殿にあった正統的ユダヤ教文書はユダヤ戦争によって完全に焼失し、異端文書が二千年間保存されたという皮肉な結果になる。
 現代まで伝承された正統的ユダヤ教文書はラビたちが所有していた聖書。


 直接メールはup7am@yahoo.co.jpにお願いします。


 <NewCybweText> へのリンクです。こちらも読んでね!

| | コメント (0) | トラックバック (0)